こんちゃ。熊次楼です。 音楽と趣味である鉄道をのびのび書いていきます。
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留学日記2
2014-12-29-Mon  CATEGORY: ギター・音楽
※長文、自己思想注意です!

自身の曲を作曲していてふと頭に浮かんだことがある。
作曲する事や何か文章を書くことほど客観的に自分を見られることはあるかと。
自分が今作曲している曲はどこか懐かしい聞いたことある様なメロディーを基にして作っている。作曲する際、自分が今何を思っているのか、今何を考えているのか、今何を感じているか、ということが最も重要な焦点となる。
そこで自分で気がつく、「今書き出しているメロディーは自分の気持ちなのではないか」と。

普通の方が聞くと「わけのわからない音が羅列されただけ」と感じてしまう現代音楽にあるように、音楽知識などが揃っていないとわからない曲が存在する。しかし、このような音楽がもし「作曲者が思い描いた音楽だ」としたらどうだろう。聞き手の考え方が変わってくるかもしれない。作曲者自身は無我夢中で書いているわけではなく、そのメロディーが自分の今の気持ちなのだと感じて書く。だから曲の題名に「~に捧げる」だとか「~のための~」とかがあるのではなかろうか。―ということは、自分の気持ちを素直に見つめて書いている→つまり、客観的に各々を見ているということになる。歴史的背景が曲に含まれるのもそのためだと思う。

逆に自分が話すとき演奏するときというのは客観的になりにくいということもわかった。特に僕の場合は小学生の頃から自己中なので話すときも演奏するときも自分の主張が最優先になる。そのような事象はつい最近もあり、共にいた知人から注意されてしまった。相手の話していることが少しでも自分のフィールドから外れると「違う」と分断してしまうからである。そしてここで一番怖いことは、自分自身は覚えていないことである。
そう、話す言葉は文字で残らないから。

しかし、文章だと残る。

そして自分の考えを文章でつづると「あ、俺今こんな(いいこと・わるいこと)考えているんだ」と気づき、訂正するなりなんなりとして言葉を整える事ができる。仮に文章に暴言等を書いた場合、話し言葉と違って紙の上に残る。それも素晴らしく怖いことである。

で、それは作曲にも同じことが言える。

即興だとかなんだとかで色々音を並べて弾けばそれは自分が考えた曲になる。そして相手が嫌な音だなと思っても本人は即興だから全部は覚えていない。(=話し言葉)
ただし、作曲をするとそれは言葉ではなく「音符」として音が残る。だから自分なりに整理して訂正するなりなんなりして音を揃えていく。いつだったか誰かが「こいつのメロディーが気に食わねぇから俺がきたねぇ和音をつけてやった」とか言って笑っていた。
このように誰かがイヤミ等でその曲を改造して編曲までした場合、即興と違って紙の上に残る。(=文章言葉)

比較するとやはり作曲や書くという動作がいかに客観的かわかる。

・・・ということがわかった以上、僕は演奏するときも話すときも客観的にいこうと決心したのである。(←言いたかった事これだけ)

長文並びに自己思想お付き合い下さり、ありがとうございました。
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